歎異抄について、よく聞かれることにたいしてお答えします!
「歎異抄」は鴨長明の方丈記、吉田兼好の徒然草と同じく、
日本三大美文とよばれているものです
文体のうつくしさもさることながら、名言も数多くあります
一部、紹介します
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや
意訳:善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人はなおさらだ
(引用:歎異抄をひらく)
これは、善いことをする人よりも、悪いことをする人のほうが幸せになれると読み間違えてしまう人がおおいところです
この理解だと、「悪をすればするほど良い」、という意味になってしまいますが、冷静に考えて、そんなことを教える人が聖人とよばれるはずがありません
ここでの悪人は、「すべての人」のことをさしています
なぜ、すべての人が悪人なのか?
自分も悪人なのか?
そうすれば、善人とはどういったひとなのか?
非常に大事なところです
あれ?犯罪をしちゃう人が「悪人」って思ってたけど、なんか違うみたい??
父母の孝養のためとめ念仏、一返にても申したることいまだ候わず
意訳:親鸞は亡き父母の追善供養のために、念仏一遍、いまだかつて称えたことがない
(引用:歎異抄をひらく)
日本のおおくの家庭では、家族がなくなると寺の僧がきて経をよみ、また親族あつまって念仏となえるところが多いと思います
また、四十九日など法要のたびごとに念仏となえたり、墓参りをして念仏するひともあります
念仏となえることが、なくなった人の供養、幸せにつながっているんだ、ということを、無意識のためにおもっているからだと思います
しかし、親鸞聖人は、なくなった自分の親にたいして念仏をとなえたことがない、と言い切っています
念仏となえないのって、親不孝なイメージがありました
親鸞聖人は、両親に対して冷たかったわけではありません
むしろ、父・母に対する想いがつよいとさえ思わされます
では、なぜ親鸞聖人は、父・母に念仏をとなえなかったのか?
ここに、念仏の意味を理解するカギがあります
念仏者は無碍の一道なり
意訳:弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りとならぬ、絶対の幸福者である
(引用:歎異抄をひらく)
絶対の幸福になったひとは、障りが障りとならないということです
大金持ちになっても、資産がへらないか、もっと増やせないかと、結局気持ちがおちつきません
大きな仕事をまかされるように成長しても、仕事を成功させられるのか、続けられるのかという不安があります
大切な人も、永遠に生きているわけではありません
「無碍の一道」とは、このような不安などがあっても、まったくさわりにならない・くずれない幸せということです
これは、努力してみにつく「心の持ちよう」とは違います
名言の真意が大事
これら以外にも、名言はおおくあります
意訳のように一言であらわすことができても、真意は一言ではなかなか伝わりません
講座では、これらの意味を親鸞聖人の著書である教行信証などとも紐づけながら、解説していっています
深い言葉を理解することで、実生活もあかるく、元気にすすんでいくことができます
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思い込みで理解すると、仏教の言葉はまちがえちゃいそうですね
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